
当時の父は会社をやめ、小説家に転身する過渡期の状態で実にふらふらといい加減で、とても家庭を守るべき夫や父親像とはかけ離れた存在感を放っていたのも事実なのでしょうが、私自身は、この公団時代が父と2人だけで共有する思い出が最も多いように思っています。父は家にいる時間が長く、私もまた年齢的に一人歩きするには早かったため、自宅で遊ぶことも多かった時期でした。母なら許してはくれない砂糖入りほうじ茶を作ってくれたり、おふろではハンカチ大のタオルを湯船に浮かべ、お湯をくるっと包んで「くらげ」を作ってくれたり、手の小指だけを曲げる、という特技を身につけさせてくれたり(これはもともとできる人ももちろんいるようですが、本来はできない人が多いらしく、子供の頃はちょっと自慢でした)、自転車を狭い玄関で組み立てて、補助無しで乗れるまで練習に付き合ってくれたのも父でしたし、逆上がりができるようになったのも父のおかげだと思います。いつも下駄履きで、じゃっじゃっと公園の砂利を蹴散らしながら、時折野球のピッチングフォームのように腕を振り回し歩いていた姿が目に浮かびます。
一方で父は、作品に描かれている通り、(ちょっと待て、あれはあくまで小説であり、その内容を作者の実生活と見るのはいかがなものか、という建前はもう面倒なので私は無視します。ただし、我が家に限っては、と一応言っておきましょう。)複雑な人間関係の渦中にいたり、怪しげな仕事を請け負ったり、とてもほめられたものではない大人の人生も同時に歩んでいたわけで、もちろん当時の私には知る由もありませんでしたが今自分も大人になって考えてみると、父はあの巨大な団地の内側と外側で違う人生を同時進行していたのではないでしょうか。父だけではなく、あの団地に住む大人たちは皆、そうだったのではないでしょうか。そう思わせる閉鎖的な世界観というか、内と外の断絶感が、あの団地にはありました。
2011年に刊行された佐伯剛正さんという写真家の作品集「一九七二年 作家の肖像」という本に収録されている父の写真は、まさにあの団地に居た頃撮影されたものです。団地のすぐ外を通る道路にかかる歩道橋の上で、父はタバコを片手にたたずんでいます。写真の横には父が書いた文章が掲載されています。
「・・・このニワトリ小屋のような金網は、また、何かの罪人を輸送するトラックの幌のようでもある。実さいは、わたしの住んでいる団地の真裏を走り抜けるバイパスにかかった歩道橋のおおいだ。つまり何ものかから何ものかへの出口であると同時に、入口でもある。そのような場処に置かれている人間は、すなわち何ものかと何ものかに挟み撃ちを喰っているということになるのだろう」