むかしむかし、追分が宿場としてにぎわっていたころに実在した、と言われているものの、確かな記録もあるようでなく、いたのかいないのか、結局わからないのに、いたことにはなっている謎の遊女、吉野大夫について、父が調べようと思ったが、どうにも中途半端になってしまう。そしていつものように、あらぬ方向に興味がずれて、本題から離れて、という、題材も内容も、これが学校の宿題ならば先生に叱られてしまいそうな作品です。父のいいかげんな姿勢は作品の中だけのことではなく、実生活でもおんなじような生き方をしていたと思います。
先日文芸誌「すばる」に発表されたいとうせいこうさんの小説「鼻に挟み撃ち」の中では、こんなふうに書かれています。
「後藤明生は調べればわかる研究書の中の語句の意味について、とうとう『いまはその気もない』と言ってのける。調べる気はない、と。
この一貫した『1人のまことに不精なシロウト』ぶりに、皆さん、わたしがどれだけ救われたことか」
今回父の作品を電子書籍化するために読み直していく内に、私も父からこの精神性を受け継いでいたのかも、と思いあたりました。
すなわち、物事は決着しないこと、調べ物は調べないのが常であること、提案はうやむやになる定めであること、など、我が家では当たり前だった流儀が社会では全く通用しないのだということを、私は社会人になって初めて知ったのだ、ということを思い出したのです。 出す企画には具体性が必要であるとか、決まった事案はやりとげるとか、情報は必ず裏をとるべきであるとか、今思えば当たり前のことなんですが、とても新鮮でした。それができるようになるまでに数年かかったように思います。全てを父のせいにするわけではありませんが、迷惑な話です。
とはいえ、「吉野大夫」は娘である私にとっては、元気いっぱいに動き回る父の姿を鮮やかによみがえらせてくれる、なつかしくあたたかい作品です。父は闘病の末病院で亡くなりましたし、晩年は入院していない時期もそれほど動作が活発だとは言えませんでした。これまで父の記憶、というとやはり晩年の姿が真っ先に頭に浮かんでいたけれど、「吉野大夫」を読んだことによって、父がまだ若かった頃の記憶が先に出てきてくれるようになったことが、とても嬉しいのです。
元子