新しい家はマンションの11階にあり(小説では14階ということになっています)、最初外の景色に驚いた記憶があります。今でこそ11階なんて高いうちには入らないかもしれませんが、当時はかなり新鮮な眺めでした。
父も同じような気持ちで頻繁にベランダから景色を見るようになり、そして「こんもり繁った丘のようなもの」を発見したのでしょう。「黄色い箱」に出会ったのでしょう。アドバルーンは特に珍しいものではないけれど、それが「首塚の上にある」、という瞬間を見ることができたのは、父しかいなかったかもしれません。と書くと、まるで父は人並みはずれた観察眼を持っていた、という結論になりそうですが、もちろんそうではないでしょう。父が人並みはずれて持っていたのは好奇心であり、更にはその対象が常にずれていたのだと、私は思います。
たとえばカツカレーを注文し、出てきた料理を見て「カツがおいしそうか、大きいか」という点に注目する人が大半だとすると、父は「カレーの皿がまん丸か楕円形か」のほうが気になる、というような感じです。その思考法は父のクリエイティブな生活においてはプラスであり、共に生活をする家族にとってはしばしば迷惑であったということも察していただけるのではないかと思います。
父の好奇心はまた、時に暴走することもあり、強引な解釈をごり押しすることもありました。それを物語る一つのキーワードが「UFO」です。とある夏の日、軽井沢町追分の山小屋にいるとき、遠くから聞きなれない音が聞こえてきました。奇妙な電子音です。父は「あれはUFOの飛ぶ音だ」と言い出しました。小学生だった私は、こんな山の中なら確かにUFOが着陸する場所もありそうだと、怖がりながらも興奮しました。
ところが数日後、同じ音がまた聞こえてきたので父が「ほら、あれ、UFOだろ!」と遊びに来ていた親戚に言うと、「ああ、あれは効果音が出るおもちゃですよ。アメリカのパトカーのサイレン音を真似した奴です」と、あっさり片付けられてしまったのです。現在は無いのでしょうが、当時はバイクのエンジン音やパトカーのサイレン音に似せた音を出すアイデアグッズみたいなものがけっこうあったらしいのですね。今でもアメリカのドラマや映画を見ると、時々ポリスの車があの音をさせながら登場する場面があり、思わず笑いがこみ上げてきます。
そしてまた別のある晩、、「首塚」の舞台である幕張のマンションでの出来事です。リビングから外を眺めていた父が、「おい、あれなんだ」と声を上げました。見るとはるか遠方の空の一点が妙に明るく光っています。「首塚」とは反対側の、海がある方角でした。遠いとはいえその光は強烈で、火事とか工事の照明とかとは違う、というのは確かなようでした。さあ、もうおわかりですね。「あれはUFOの光だ」と、なったわけです。多分父は、その後もずっとそう信じていたはずです。
結局光の正体はわからずじまいでしたから、父の見解が間違っていたとも思いませんが、あっていたとも思いません。ただ、この二つの「事件」の間には約10年の時間が流れているにもかかわらず、父が同じ結論にたどり着いたというのがすごく面白いな、と思いますし、また父が、UFOを、ヘリコプターとか飛行機とかと同じような、「ただちょっと珍しい」乗り物としてとらえていたかも、という疑念もぬぐいがたく、もしかして宇宙人?というのも冗談ではなくなってくるような、こうして私自身も父に引きずられ、日常の中の異界にとらわれていくのでありました。